野にイケンあり〜ジャーナリスト武田一顕が詠む時政

政局や中国について【野の意見】を個人の備忘録として書き連ねる。 よろしくどうぞ。

参院選を読む①〜東京選挙区の注目点

参議院選挙は思いのほか盛り上がってきた。

 

当初は、今回の参院選

安倍政権の信任か不信任かだけだし、

自公の議席参議院全体の過半数を割ることは

ありえないし・・・ということで

注目度も低かったのだが、

終盤に来て俄然面白くなってきた。

 

2012年、

当時の民主党野田佳彦総理が自爆解散を行い、

安倍政権が誕生した。

以来、投票する先が消極的理由で

自民党しかなかったものの、

このままでいいのかと多くの有権者

感じ始めていることが、

参院選への興味を呼んでいるように見える。

 

その参院選

東京では創価学会員が

公明党でなく他の政党から出馬してしまった。

れいわ新撰組の野原ヨシマサ候補(59)だ。

公明党の支持母体である創価学会

というのは決まり文句で、

何があろうと公明党に投票するのが創価学会員。

自公連立以降は、公明候補がいない選挙区では

自民党に入れるのもお決まりだった。

それが、壮年部所属の現役学会員が東京選挙区で

公明党を叫んで立候補に打って出た。

 

公明党は1964年の結党以来、

どちらかというと主に都市部の

貧しい人々を対象に支持を広げてきた。

高度経済成長に乗り切れなかった有権者の票を

共産党と争って取り合ってきた側面がある。

ところが1999年、

自公連立を組んだあたりから

路線転換をはかり始めた。

特に小泉政権

市場原理主義アメリカ型社会、

弱いものを無慈悲に蹴落とす

弱肉強食の世の中」(亀井静香)を作るような

政策が推し進められると、

公明党も連立のパートナーとして

これに追随せざるを得なくなった。

また安全保障面では、

小泉政権時代の有事法制

安倍政権の安保法制にも賛成した。

 

学会員の2世3世は経済的に余裕のある人々も

多くなった。学会員のエリート化だ。

既存の社会に疑問を持って批判するより、

体制内で何ができるか現実的思考をする人が

公明党支持者、創価学会員の中にも

増えてきたという。

 

また、公明党自民党への政策追随に

疑問を持つ学会員も多い。

公明党は「平和と福祉の党」を標榜しているが、

経済政策、安保政策を見ると、

そうではなくなっちゃったんじゃないかと

疑問を持っているのだ。

いわば学会員の二極分化の流れの中で

野原の立候補がある。

これまでなかなか見えなかった

『鶴のカーテン』の内部の矛盾が

表に出されてしまった。

 

だから、野原が今回の選挙で当選するかは、

実はあまり重要ではない。

期日前および当日の投票で行われる出口調査で、

公明党支持者のうちどれくらいの有権者

野原に入れるか。

本当のことを言わない人もいるので

慎重さが必要だが、その割合は重要指標だ。

 

そんな目で見ると、今回の参院選

いまの日本をまた違った角度から

分析出来るのではないだろうか。

みぎむきも ひだりも選挙は ひたむきに

ハンセン病元患者の家族へ賠償を命ずる

熊本地裁判決について、

政府は控訴しない方針を決めた。

9日朝、安倍総理が自ら発表した。

朝日新聞が当日朝の一面トップで、

「政府が控訴する方針」と

誤報を打ったというオマケもついた。

 

控訴断念について、

参院選真っ只中であることから

選挙目当てとの声も聞かれる。

そりゃ選挙目当てだろう。

普段は「前例」を盾に

国民の願いはできるだけ却下する行政が、

総理トップダウンの指示を演出して

前例踏襲を自ら破ったのだ。

 

ここからは評価の分かれるところだ。

 

選挙目当てで、行政の一貫性を捻じ曲げたのは

けしからんという人もいるだろう。

ハンセン病患者の家族のことを考えると

控訴断念という決定自体は歓迎したいが、

参院選の真っ只中にこうした決断を下した安倍に

あざとさを見る人もいるだろう。

 

私は、今回の決定は参院選にプラスに働くことは

間違いないと推察している。

あざといと思われようが、

これでハンセン病患者やその家族が

少しでも救われるならいいだろうと考え、

自民党に投票する人は増えるだろう。

少なくとも減ることはない。

 

もう一点。

 

選挙は、当事者はともかくとして、

その他の有権者から見ればゲームだ。

候補者Aと候補者Bが戦って、

どちらかが勝ち、どちらかが負ける。

ルールを守ることと、

命は取らないことが約束。

スポーツの試合を見るのと非常に似ているのだ。

 

ただ、政治ゲームは、

これは何点これは何点というのは分かりにくい。

その時に判断材料となるのは、

当事者がどれだけひたむきに

一生懸命ゲームに取り組んでいるかだ。

スポーツの試合だって、AKB総選挙だって、

点数だけで感動する訳ではない。

 

安倍は、2007年の参院選で惨敗して

惨めな退陣を余儀なくされた。

参院選へのトラウマや、そこにかける思いは

私たちの想像以上だろう。

どんなことをしても勝ちたい!と思う

情熱が伝われば、

そこに感動する有権者も出てくる。

 

十年一日のごとく選挙戦になれば、

政権批判を繰り返して自分たちの主張だけを

訴えている野党と、安倍と、

どちらが有権者の心を動かすだろうか。

たとえ権力を持っていない野党でも、

選挙前に共闘をより深化させるなど

懸命さをアピールする方法は

いくらでもあったはずだ。

参院選一人区で野党候補が伸び悩んでいるのは、

たとえ自公政権に疑念を持っていても

うわべだけの野党共闘よりはましだろうと

賢い有権者は考えているからに他ならない。

 

韓国への半導体材料輸出規制からも

参院選にかける安倍の熱意は伝わる。

報復措置の側面もあるが、

安倍政権の側から考えればなんといっても

選挙ファースト。

事実、世論調査を見ると、

輸出規制強化に賛成する人は

6割前後に上っている。

つまり、民意をうまく汲み取っているのだ。

 

選挙の実態は、政策の評価よりも

個々の候補者、政治家、

とりわけ各党党首のひたむきさが

投票行動を左右する。

その点で、今回の選挙は

すでに勝負がついた感がある。

 

あとは、そのひたむきさを

今回の参院選で最も強く打ち出している

山本太郎率いるれいわ新撰組

どのような結果を残すのか、こちらも注目だ。

日本では 言い訳くらいか でもの意味

私の知る限り、香港の大学生、
特に男子大学生はまことに穏やかだ。
イギリスの植民地だっただけあって
英語は流暢だし、
ジェントルマンであろうという意識が非常に高い。
その彼ら、そして彼女らが
怒りを爆発させたのだから、
よほど腹に据えかねたのだろう。
いや、怒りというより、将来への不安が
彼らを道路占拠へと駆り立てたのだ。



香港で、刑事事件の容疑者を
中国本土に引き渡すことを可能にする法律が
可決されようとした。
これに反対する群衆百万人が道路を占拠したが、
当局は催涙弾を若者に向けてぶっぱなし
70人以上が負傷したという。
警察官に引っ立てられたり、
ケガをして担架で運ばれる彼ら彼女らの姿を
ツイッターで見ていると、
89年6月4日の天安門事件を思い出す。
天安門事件の被害者は
軍によって殺されているし、
現在もネットなどで見られる被害者の写真は
凄惨極まりないものだ。
今回、死者はいないが、
肉体が破壊されることよりも
精神が破壊されるという点において、
同様のものがあるように思う。



つい先日、6月4日に天安門事件は30周年を迎えた。
その直後に香港で今回の大混乱に
思うことは尽きない。
自由、人権、民主といった希望の光は
天安門事件で破壊された。
中国本土はこの3点において、未だ暗闇の中だ。
一方、香港は1997年の返還以降、
50年間、一国二制度が保証されるはずだった。
懐疑的になりつつも、市民は
自由、人権、民主を謳歌できると信じていた。
いや、信じたかったと言う方が正解か。
その半分の25年にもにも満たないうちに
中国共産党の顔色をびくびくと窺っている
香港当局の様子を見て、
もはやそれらは風前の灯火と考えたに違いない。

1842年、香港島がイギリスの植民地になった。
イギリスによる統治はそこそこ成功し、
植民地ながらもアジア金融基地として
飛躍的な経済発展を遂げた。
多くの人が望まぬかたちで1997年に
共産中国へ返還されることが決まったが、
それでも普通選挙が行われ、
表現の自由も保証された地域だった。

2014年の雨傘運動で
やはり反中国デモが起きたとき、
香港中心部・セントラルの路上は
学生たちのテントで24時間占拠された。
私は、その場にいた。
テント群から300メートルくらい離れた路上に
50歳くらいの夫婦がいたので話しかけたところ、
自分たちの娘がで寝起きしているという。

「このまま娘があそこにいたら、
当局が何をするかわからないから、
止めに行きたい。
でも自由や民主が大切だという
娘の気持ちがわかるから、止められない。
私たちも1989年には同じ気持ちだった。
だから娘にも知らせず、ここから見守っている」

この母親の気持ちは、
多くの香港人の心情だろう。

6月15日、法案の審議を延期すると
香港のトップである林鄭月娥・行政長官は明言。
しかし、民衆はおさまらない。
翌16日にかけて起きた
延期ではなく撤回を求める更なる大規模デモは、
メンツを重んじる彼女を謝罪にすら追い込んだ。
民主主義の底力を見た気がする。
習近平国家主席のメンツも丸つぶれとなり、
法案可決をこのまま北京が諦めるかどうかは
予断を許さない。

民主主義が試されているのは
実は我が国も同じことのように思う。
これは、対岸の火事では決してない。
風前の灯である民主主義をどうやって守るのか、
降りかかる火の粉をどう避けるのか、
火事が延焼してきたら、どう消火するのか。
いま我々は、歴史の火に対する向き合い方を
間違いなく問われている。

香港での「デモ」は
民主主義を守る大きな動きであるのに対して、
日本では「でも…」と
言い訳する時に使う言葉が真っ先に連想される。
そんな平和ボケができる時代が
この日本で続くことを願ってやまない。

天の門 壁崩れるは いつの日ぞ

ロクヨンというと、若い人は

2016年に公開された横山秀夫原作の映画を

思い浮かべるかもしれない。

中華人民共和国以外に住んでいる台湾人や

そのほかに住んでいる華僑、華人

「六四?」と聞けば、

1989年6月4日に北京で起きた

天安門事件のことだとすぐにわかるだろう。

 

1989年4月。

庶民から人気が高い、開明派の指導者だった

胡耀邦が病死した。

毛沢東による文化大革命からの変化を感じさせる

スーツにネクタイ。

西側政治家を思わせる政治スタイルと

性格の明るさで、人気は絶大だった。

しかし、保守派の巻き返しで86年に失脚。

その彼の死に対し、追悼と称して

保守派の動きに反発する学生や市民が

続々と天安門広場に集結。

1か月以上にわたって広場は占拠され、

中国共産党も手が付けられない状態にあった。

6月4日夜明け前、業を煮やした

当時の最高指導者・鄧小平は

戦車と兵士を天安門に突入させ、

市民多数を殺傷した。

武力行使である。

死者の数は、数千とも数百とも言われている。

 

北京の目抜き通りであり、

天安門広場を東西に貫く長安街は

事件翌日には何事もなかったように

綺麗に清掃されていた。

しかし、知り合いの中国人によれば、

長安街から一歩入った裏通りは、

血を流す死傷者で溢れていたという。

また、当時広場にいた別の知人は、

人民解放軍が入ってくる中を逃げ惑った。

隣にいた女性は、

兵士が銃を下に向けて撃った跳弾で

頭から血を流し、

おそらく死んだだろうと言っていた。

 

その後、中国は飛躍的に経済成長して、

当時に比べれば格段に豊かな国になった。

学生や市民を殺傷しても

中国共産党の支配を守った鄧小平の判断は

正しかった、という人は

進歩的な人々の中でさえも多い。

 

天安門事件の本質は、

中国最高指導部内での対立だった。

最高指導者の鄧小平一派と、

人気者・胡耀邦の後継者であった

総書記・趙紫陽一派の対立だ。

国家分裂の危機さえあった。

軍を握る鄧小平は、

趙紫陽に一歩先んじて天安門広場を掃討。

多数の市民を殺傷するのと引き換えに、

対立の原因に幕を引いた。

 

私は当時、一睡もせずにCNNを見ていた。

私の記憶では、CNNは24時間北京からの中継を

全世界に放送していた。

市民が戦車の前に立ちはだかり、

戦車の進行を止める様子…

社会主義共産主義に対して

わずかたりとも抱いていた幻想が、

脳内で音を立てて崩れていくのを感じたものだ。

 

亡くなった無辜の市民を思うと、

また、それが自分の家族だったらと思うと、

耐え難い。

だが、誤解を恐れずに言えば、

鄧小平の判断は間違いではなかったと

今は考えている。

歴史に「If」を持ち出すとすれば、

鄧小平が妥協していた場合、

中国国内はより大きな混乱に陥っていたことは

想像に難くない。

そしてそれは、日本も巻き込んで

世界中をカオスへと陥れただろう。

独裁下において、歴史は政権が作る。

現在の中国の繁栄を見る限り、

鄧小平に他の選択肢はなかったのかもしれない。

 

 

今の中国を批判する人は、

もっと客観的に中国を分析するべきだ。

市民を殺した事実は許されざるべきものだが、

当時の共産党内部での議論や

当時の中国の置かれていた状況も

冷静に見なければならない。

 

また、中国共産党自身も、

当時の判断が正しかったというなら

もっと開放的になるべきだ。

内部資料を公開すれば、

私たちにも今よりずっと客観的な状況がわかる。

インターネットで「天安門事件」と検索すると

何も出てこないというような姑息なことをせず、

事件から30年経ったのだから

開放的な議論を許さなければならない。

 

鄧小平は97年に死去したものの、

当時の李鵬首相ら軍の発動を主導した幹部は

未だ健在である。

彼らに逆らうことは、

いまの中国では許されないだろう。

しかし、ロクヨンから半年足らず後、

89年11月にはベルリンの壁が崩壊した。

いま、中国共産党が情報封鎖のために

いかに厚くて高い壁を作ろうとも、

それは万里の長城のように無意味な防御策となる。

 

風吹けば にんき拡大 ダブル選

果たして、衆参ダブル選挙はあるのか?

政治に高い関心を持っている方ならずとも、

気になるところだろう。

 

自民党の甘利選挙対策委員長は先月27日、

テレビ番組に出演し、

衆参同日選について「99%ない」と話した。

また、私の知る自民党関係者は、

いまの自民党は選挙を戦えるような状況ではない、

1回~3回生の惨憺たる様子を見れば

衆議院総選挙なんて考えられない、と言う。

 

一方、国民民主党と合流した小沢一郎は、

総理は解散を打ちたくてウズウズしていると話す。

 

はたして、どちらの観測が正しいのだろう。

 

大状況を見れば、解散総選挙の可能性は高い。

小沢が言うように、

野党はまとまっておらず、

いま解散となれば直近3回の衆院選と同じく

壊滅的な打撃を受ける。

勝てるときに選挙をやるという目論見が

まんまと当たるというわけだ。

 

小泉の郵政選挙以来、この国は

時の総理がいつでも解散総選挙を打てるという、

異形の議会制民主主義国家となってしまった。

安倍は選挙データなどをにらみながら

解散を打つか否か判断することになるが、

キーポイントは

自らの任期をどう見ているか。

このまま総理を続ければ

8月には佐藤栄作政権を超えるが、

政治的実績はまだそれほど大きくない。

まだ総理を続けたいなら、

解散総選挙をできれば早いうちに打ちたい。

 

さらに、解散風が吹いたり止んだりすることは、

安倍自身への注目を集めて

威信を高める格好の材料になっている。

威信が集まれば、権力はそこに集中する。

つまり、人気者。

安倍の総理としての任期がわずかとなり

レームダックにならないためには、

解散という大権が彼自身の手中にあると

見せ続けなければいけない。

 

結局、解散風が吹いても止んでも

時の権力者にとって損はないのだ。

買ったのは 歓心だけか 新ディール

イギリスがドイツの猛攻にさらされる最中の

1941年8月。

イギリスのウインストン・チャーチル首相は、

アメリカのルーズヴェルト大統領と

戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で対峙した。

二人は大西洋憲章を発表。

アメリカがヨーロッパ戦線に参戦することが

この時に決まった。

 

      私ほど、妾のように

      ルーズヴェルトに仕えた男はいない

 

後にチャーチルは自虐的にこう語ったが、

ルーズヴェルトの歓心を買うことに成功し、

イギリスとヨーロッパは

ヒトラーの魔手から解放された。

安倍総理によるトランプ大統領への

『おもてなし』を見ていて、

チャーチルの言葉を思い出した。



アメリカの大統領が海外を訪れる際、

一か国だけを訪問してトンボ返りするのは異例で

日本重視の表れだというが、

そんなことをありがたがる人がいるというのも

私には驚きだ。

日本の首相などアメリカにしょっちゅう

トンボ返り訪問をしている。

世界ナンバーワンの国のトップの歓心を買うとは

これほど大変なことなのかと、同情を禁じ得ない。

 

安倍のおもてなし外交は

一定の成功を収めたように見える。

何度も自賛していたように、

日米同盟が強いことを世界にアピールできた。

すなわち、中国の習近平、ロシアのプーチン

そして北朝鮮金正恩のそれぞれに対し、

自分が仲介者になれると誇示できたのだ。

一方、韓国の威信低下が顕著だ。

これまで韓国は、アメリカ要人が訪日すると

韓国も訪れるよう懇願してきた。

(まあ、これは日本も同じだが)

今回トランプが日本だけを訪問して

韓国を素通りしたのは、

文在寅を信用していないというサインであり、

彼と彼の取り巻きにとっては打撃だろう。

文在寅米朝の橋渡し役として存在感を示し、

安倍総理は蚊帳の外に置かれていた感のある

昨年の今ごろとは、えらい違いだ。


ところで、

チャーチルルーズヴェルトの歓心を買い、

国家の独立とプライドを守った。

ただ、代償としてイギリスは海外領土を失い、

世界における軍事的・経済的優位を

アメリカに譲るなど、大きな犠牲を払った。

安倍総理はトランプのご機嫌を取り、

一見、アジアにおける日本の外交的優位を

勝ち取ったようだが、

国民に何を与えてくれるのか。

逆に、いったい何を犠牲にしたのか。

大きな視点でアメリカ追随の功罪を

分析することが必要だ。

権謀の 思惑挫く 理想かな

 

令和、あけましておめでとうございます。

なんとなく、そういう雰囲気の皇位継承だった。

上皇の皇太子時代から天皇時代への歩みを

テレビなどで見ていて、

ふと上皇と中国の関係について気になった。

 

 

1992年10月、

天皇(以下当時)は中国を訪問した。

北京、西安、上海3都市への旅。

中国は第二次世界大戦において

アジアで最大の人的被害を被った国だ。

当時、日本では保守派の中に

天皇訪中への反対論が根強かった。

いわく、謝罪外交だ!

いわく天皇の政治利用だ!などなど。

 

中国側は、表面的には友好親善を深める訪問と

猫をかぶっていたが、

実は天皇訪中を政治的に利用しようと

周到に準備していた。

と言うのも、さかのぼること3年半前。

天安門広場に向けて戦車を進撃させ、

人民解放軍が一般市民を多数殺傷した

天安門事件が起きた。

中国市民の抑圧された状況に

怒りを隠さなかった欧米先進諸国は、

経済制裁とともに要人の交流などを停止した。

そんな、天安門事件の記憶が生々しいうちに

天皇初の中国訪問は行われたのだ。

 

当時中国の外相だった銭其琛回顧録の中で、

天皇訪中が実現すれば、西側各国が科した

中国指導者との交流禁止令を打破できる」

と考えたと、2003年に書いている。

中国は、天皇訪中を存分に利用したのだ。

日本国内の保守派は、銭其琛の文章を読んで

再び激高した。

 

ただ、今にして思うと、

天皇は中国側の意図など百も承知だったと

思わざるをえない。

それでも、昭和天皇以来の重い宿題・・・

戦火を交えた日中両国の和解と

中国の地で亡くなった戦没者への慰霊、

中国人犠牲者への哀悼を

天皇はなんとしても成し遂げたいと

考えていたのではないか。

もちろん訪中自体は内閣が決めたものだが、

中国を訪れたいという天皇の意思は

在任時代の日本各地や世界各地への訪問を見れば

一目瞭然だ。

中国側の政治的意図なんて、

こうなるともうどうでもよい。

崇高な理想を追い求める行動は

一時の政治的思惑なんて

吹き飛ばしてしまうものだと、

上皇の軌跡を見ていて強く感じた

平成から令和への改元だった。

 

 

近視眼的な政治家諸兄にも見習ってほしい。

「政治という仕事は、

情熱と判断力の両方を使いながら

堅い板に力をこめて、

ゆっくり穴を開けていくような仕事だ」

ウェーバーの言葉は、

何も政治に限ったことではない。

そして、象徴としての役割という仕事も、

同じようにゆっくりゆっくり穴を開けてきた

遠大な作業だったと感じるのだ。