野にイケンあり〜ジャーナリスト武田一顕が詠む時政

政局や中国について【野の意見】を個人の備忘録として書き連ねる。 よろしくどうぞ。

日本では 言い訳くらいか でもの意味

私の知る限り、香港の大学生、
特に男子大学生はまことに穏やかだ。
イギリスの植民地だっただけあって
英語は流暢だし、
ジェントルマンであろうという意識が非常に高い。
その彼ら、そして彼女らが
怒りを爆発させたのだから、
よほど腹に据えかねたのだろう。
いや、怒りというより、将来への不安が
彼らを道路占拠へと駆り立てたのだ。



香港で、刑事事件の容疑者を
中国本土に引き渡すことを可能にする法律が
可決されようとした。
これに反対する群衆百万人が道路を占拠したが、
当局は催涙弾を若者に向けてぶっぱなし
70人以上が負傷したという。
警察官に引っ立てられたり、
ケガをして担架で運ばれる彼ら彼女らの姿を
ツイッターで見ていると、
89年6月4日の天安門事件を思い出す。
天安門事件の被害者は
軍によって殺されているし、
現在もネットなどで見られる被害者の写真は
凄惨極まりないものだ。
今回、死者はいないが、
肉体が破壊されることよりも
精神が破壊されるという点において、
同様のものがあるように思う。



つい先日、6月4日に天安門事件は30周年を迎えた。
その直後に香港で今回の大混乱に
思うことは尽きない。
自由、人権、民主といった希望の光は
天安門事件で破壊された。
中国本土はこの3点において、未だ暗闇の中だ。
一方、香港は1997年の返還以降、
50年間、一国二制度が保証されるはずだった。
懐疑的になりつつも、市民は
自由、人権、民主を謳歌できると信じていた。
いや、信じたかったと言う方が正解か。
その半分の25年にもにも満たないうちに
中国共産党の顔色をびくびくと窺っている
香港当局の様子を見て、
もはやそれらは風前の灯火と考えたに違いない。

1842年、香港島がイギリスの植民地になった。
イギリスによる統治はそこそこ成功し、
植民地ながらもアジア金融基地として
飛躍的な経済発展を遂げた。
多くの人が望まぬかたちで1997年に
共産中国へ返還されることが決まったが、
それでも普通選挙が行われ、
表現の自由も保証された地域だった。

2014年の雨傘運動で
やはり反中国デモが起きたとき、
香港中心部・セントラルの路上は
学生たちのテントで24時間占拠された。
私は、その場にいた。
テント群から300メートルくらい離れた路上に
50歳くらいの夫婦がいたので話しかけたところ、
自分たちの娘がで寝起きしているという。

「このまま娘があそこにいたら、
当局が何をするかわからないから、
止めに行きたい。
でも自由や民主が大切だという
娘の気持ちがわかるから、止められない。
私たちも1989年には同じ気持ちだった。
だから娘にも知らせず、ここから見守っている」

この母親の気持ちは、
多くの香港人の心情だろう。

6月15日、法案の審議を延期すると
香港のトップである林鄭月娥・行政長官は明言。
しかし、民衆はおさまらない。
翌16日にかけて起きた
延期ではなく撤回を求める更なる大規模デモは、
メンツを重んじる彼女を謝罪にすら追い込んだ。
民主主義の底力を見た気がする。
習近平国家主席のメンツも丸つぶれとなり、
法案可決をこのまま北京が諦めるかどうかは
予断を許さない。

民主主義が試されているのは
実は我が国も同じことのように思う。
これは、対岸の火事では決してない。
風前の灯である民主主義をどうやって守るのか、
降りかかる火の粉をどう避けるのか、
火事が延焼してきたら、どう消火するのか。
いま我々は、歴史の火に対する向き合い方を
間違いなく問われている。

香港での「デモ」は
民主主義を守る大きな動きであるのに対して、
日本では「でも…」と
言い訳する時に使う言葉が真っ先に連想される。
そんな平和ボケができる時代が
この日本で続くことを願ってやまない。