野にイケンあり〜ジャーナリスト武田一顕が詠む時政

政局や中国について【野の意見】を個人の備忘録として書き連ねる。 よろしくどうぞ。

天の門 壁崩れるは いつの日ぞ

ロクヨンというと、若い人は

2016年に公開された横山秀夫原作の映画を

思い浮かべるかもしれない。

中華人民共和国以外に住んでいる台湾人や

そのほかに住んでいる華僑、華人

「六四?」と聞けば、

1989年6月4日に北京で起きた

天安門事件のことだとすぐにわかるだろう。

 

1989年4月。

庶民から人気が高い、開明派の指導者だった

胡耀邦が病死した。

毛沢東による文化大革命からの変化を感じさせる

スーツにネクタイ。

西側政治家を思わせる政治スタイルと

性格の明るさで、人気は絶大だった。

しかし、保守派の巻き返しで86年に失脚。

その彼の死に対し、追悼と称して

保守派の動きに反発する学生や市民が

続々と天安門広場に集結。

1か月以上にわたって広場は占拠され、

中国共産党も手が付けられない状態にあった。

6月4日夜明け前、業を煮やした

当時の最高指導者・鄧小平は

戦車と兵士を天安門に突入させ、

市民多数を殺傷した。

武力行使である。

死者の数は、数千とも数百とも言われている。

 

北京の目抜き通りであり、

天安門広場を東西に貫く長安街は

事件翌日には何事もなかったように

綺麗に清掃されていた。

しかし、知り合いの中国人によれば、

長安街から一歩入った裏通りは、

血を流す死傷者で溢れていたという。

また、当時広場にいた別の知人は、

人民解放軍が入ってくる中を逃げ惑った。

隣にいた女性は、

兵士が銃を下に向けて撃った跳弾で

頭から血を流し、

おそらく死んだだろうと言っていた。

 

その後、中国は飛躍的に経済成長して、

当時に比べれば格段に豊かな国になった。

学生や市民を殺傷しても

中国共産党の支配を守った鄧小平の判断は

正しかった、という人は

進歩的な人々の中でさえも多い。

 

天安門事件の本質は、

中国最高指導部内での対立だった。

最高指導者の鄧小平一派と、

人気者・胡耀邦の後継者であった

総書記・趙紫陽一派の対立だ。

国家分裂の危機さえあった。

軍を握る鄧小平は、

趙紫陽に一歩先んじて天安門広場を掃討。

多数の市民を殺傷するのと引き換えに、

対立の原因に幕を引いた。

 

私は当時、一睡もせずにCNNを見ていた。

私の記憶では、CNNは24時間北京からの中継を

全世界に放送していた。

市民が戦車の前に立ちはだかり、

戦車の進行を止める様子…

社会主義共産主義に対して

わずかたりとも抱いていた幻想が、

脳内で音を立てて崩れていくのを感じたものだ。

 

亡くなった無辜の市民を思うと、

また、それが自分の家族だったらと思うと、

耐え難い。

だが、誤解を恐れずに言えば、

鄧小平の判断は間違いではなかったと

今は考えている。

歴史に「If」を持ち出すとすれば、

鄧小平が妥協していた場合、

中国国内はより大きな混乱に陥っていたことは

想像に難くない。

そしてそれは、日本も巻き込んで

世界中をカオスへと陥れただろう。

独裁下において、歴史は政権が作る。

現在の中国の繁栄を見る限り、

鄧小平に他の選択肢はなかったのかもしれない。

 

 

今の中国を批判する人は、

もっと客観的に中国を分析するべきだ。

市民を殺した事実は許されざるべきものだが、

当時の共産党内部での議論や

当時の中国の置かれていた状況も

冷静に見なければならない。

 

また、中国共産党自身も、

当時の判断が正しかったというなら

もっと開放的になるべきだ。

内部資料を公開すれば、

私たちにも今よりずっと客観的な状況がわかる。

インターネットで「天安門事件」と検索すると

何も出てこないというような姑息なことをせず、

事件から30年経ったのだから

開放的な議論を許さなければならない。

 

鄧小平は97年に死去したものの、

当時の李鵬首相ら軍の発動を主導した幹部は

未だ健在である。

彼らに逆らうことは、

いまの中国では許されないだろう。

しかし、ロクヨンから半年足らず後、

89年11月にはベルリンの壁が崩壊した。

いま、中国共産党が情報封鎖のために

いかに厚くて高い壁を作ろうとも、

それは万里の長城のように無意味な防御策となる。